昭和30年代の建物と、東京の母と慕った恩師の死

中学を卒業進学希望の私は卒業間際に我が家の現実を知った。
進学を諦め入学金も学費も不要な公立の職業訓練校建築大工科を選び入校したのです。
卒業後丁稚奉公先としてお世話になった先きが東京都杉並区上高井戸、甲州街道沿いの大工の棟梁新川佐太郎さんに弟子入り20才迄の5年間東京の母としたい年季奉公時代を過ごした。
その母の死、毎年湯沢スキー場へ向かう道すがら環八と甲州街道の交差する付近に存在する恩師の家に立ち寄ることはたやすきことであったが残念ながら今年の正月も素通りしてしまった。
葬儀に参列花に飾られた東京の母の顔はとても90才を超えた人とは思えない程美しかった、過去に多くの人の死に立ち会ってきたがかって出逢ったことのないつややかな顔
晩年は余り外には出ない平穏な暮らし方をされていた事か、おくりびとのように化粧をされたのか観音様のよう、眠るような穏やかで美しい顔でした。
又私の生母、みんなに慕われながら他界したきよちゃんは95才らしい深い年輪に刻まれた私の大好きな顔でした。
たくましくも優しい人柄で私の一番尊敬する女性でもある母は私達3人を生み、戦死した父親に代わり立派に育ててくれましたが晩年は骨粗鬆症のため腰痛に苦しんでいた。
年輪に刻まれた母の顔は私の心の中にいつもあり、又私本人の顔が母と生き写しのように似通ってきたと人から言われるようになった。
人間の顔や手はその人の生きた履歴書、私も母のような立派で誰からも慕われる人生を築いていこうと思いを新たにした。
恩師は生前菓子やたばこを扱う店舗を二人の子供達と経営、その建物は私が年季奉公を終え茅ヶ崎に戻る年に建築された50年前の建物であり現在の耐震基準から見れば大震災で倒壊の可能性の高い間口の広い開口部を持つ建物です、気持ちの中ではご恩返しに私の手で耐震補強をして差し上げたいと補遺頃から思っていた事が実現できないままでいるのが心残りです。