阪神淡路大震災から17年

17年前の震災当日私は群馬県岩倉のスキー場にいた、このことは幾度となくブログにも書いてきた。
私の震災ボランテァ経験も17年を迎えた事になり震源地の淡路島北淡町の1メートルに及ぶ断層上の建物被害調査、凄まじい灘区の建物崩壊、長田の火災痕の大谷石基礎、兵庫のお大尽屋敷の被害等、
新潟中越地震においては豪雪地の十日町、地滑りの山古志村、へぎ蕎麦の小地谷、堀之内と渡り歩き応急危険度判定を行った。
その後に起きた登半島地震では、日本海に面した門前町を基点に調査判定と見聞を広め、
続いて起きた新潟県柏崎、原発のある刈羽村では大工職を引き連れ被害建物の応急修理をし、最後に罹災証明の発行手伝いまでも務め感謝されたものです。
東日本では社員でもある孫を連れいち早く被災地に乗り込みましたが、大工の腕や耐震判定知識はなんの役にも立てず現地でわずかなお金を使うことしか思いつかなかった。
茅ヶ崎に戻っての活動は津波で流された後に自衛隊の手で回収された写真の洗浄と場所の提供、不足物資の提供などを行って来ました。
気がつけば話は横道にそれ備忘録の披露となってしまったが残念な事にのど元過ぎれば熱さ忘れるが人の世の常である事を思い知らされたのです。
弊社では17年前の大震災の時より次なる地震に備えることを心がけ、備蓄ブルーシート、を始め救助用の各種器材、チエン鋸、発電機等を購入震災に備えてきたが最近備蓄状況を調べてみたら、発電機は不調、チエン鋸、ブルーシートは使い物にならない程の始末です。
今思いついていること、免震住宅の免震住宅実験棟を展示場として近い将来に建設しよう。